切片の写真を撮るとき、撮影装置のマニュアルをきちんと読めば正しい方法が書いてありますが、何となく使えそうな気がする機械のマニュアルは読む気にならなかったり、ひどい時にはなくなっても誰も気にしなかったりするもの。しかしいい加減な方法ではいい加減な写真は撮れてもいい写真は撮れません。それに、形だけおぼえるのと原理から理解するのとでは、イレギュラーへの対応力が全く違ってきます。十字線を用いたピントの合わせ方なんて、教わらなければふつう知りませんよね。あれは狙撃銃のスコープや天体望遠鏡のファインダーにある十字線とは全くの別物です。自動化された今時の画像取得システムには全く必要ない過去の技術なんで、もうどうでもいいといえばいいのですが。
高級一眼レフフィルムカメラのファインダースクリーンには、精密合焦用に例えばニコンならFシリーズ用のM型(十字線透過型)やC型(十字線マット型)というタイプがあります(同じニコンでもデジタルのDシリーズには全面マット型しかないようです)。また、顕微鏡写真撮影装置のフォーカシングスコープにも十字線が内蔵されているはずです。これを正しく使うと、きわめて正確にピントを合わせることができます。以下、その理屈の説明と具体的な操作法。
ピント合わせとは、要するに光学系が結ぶ実像を正確にフィルム膜面(今ならセンサー面)の位置に結ばせることです。位置がずれているとフィルム面ではぼやけるので、普通はそのぼけ具合(コントラスト)でピントのずれを検出します。ただしニコンでいえばF3以降の一眼レフでは位相差で検出するのが普通です。十字線式の場合は、ぼけ具合ではなく実像の位置そのものをパララックス(視差)で検出します。むしろ位相差方式に近い考え方です。もっとも高倍率では焦点深度(ピントが合って見える領域)自体がごく狭くて、パララックス以前に「見えれば合焦」でいいそうですが、私はそこまでの(油浸レンズを使うような)高倍率を使ったことがありません。
# たぶん低倍率では観察系でピントを合わせたら撮影系に切り替えてもだいたいピントが合っていたから、撮影装置の使い方を知らなくても少しぼけた写真になるくらいで済んでいたのでしょう。高倍率では、「スコープの十字線が見えるようにリングを回せ、あとは普通にピントを合わせろ」くらいの手抜きを先輩から教わって何とかなっちゃったんだと思います。ぴしっとピントが合った写真を知らなければ「そんなもんか」で済んだのかも知れません。
こういったフィルムカメラ時代の撮影装置の概要を簡単に説明します。まず顕微鏡本体。戦前のツァイスタイプは単純な直線光学系ですが、20世紀後半以降は(学習用などを除き)垂直に配置した1個の対物レンズからの光をプリズムで観察しやすい角度に傾斜させ、さらにプリズムで左右に分割する双眼式が一般的になりました。写真撮影には、可動プリズムなどが追加されて撮影系への光路切り替えが可能な三眼鏡筒を使います。撮影系の光路は通常垂直になっています。この当時はおおむね有限長光学系(有限補正光学系とか有限遠補正光学系とかいう資料も見ますが言葉として変ですよね―現在の無限遠補正光学系とは違うといいたいのでしょうが「有限遠」って何だよ一体)だったので、撮影系の鏡筒には観察系での接眼レンズに相当する投影レンズをセットし、撮影装置で支えたフィルムボックスに光を導きます。
これだけではピント合わせその他に不便です。いや、できますよ、フィルムボックスの膜面位置にナイフエッジを置いてピント合わせとか、天文のハイアマチュアは普通にやったもんです(※)。でもかなーり不便。そこで、撮影装置には光路切り替えプリズムを組み込んであり、ピント合わせの時には投影レンズからの光をフォーカシングスコープに導きます。スコープでは投影された実像を拡大観察します。
(※)ぴったり膜面位置にナイフエッジを置きそれを観察するルーペをセットします。恒星はどれも事実上無限遠なので、適当な恒星を導入して、ナイフエッジを横切るように望遠鏡を微動させます。ピントが合っていれば恒星は事実上点光源なのですぱっと現れたり消えたりします。ずれていると明るくなりながら出現したり暗くなりながら消失したりします。正確に合わせたところでナイフエッジをフィルムに置き換えるなりフィルムボックスを交換するなりして撮影。というのは理屈で聞いただけ、私自身は一眼レフのマット式ファインダースクリーンで満足していました。
ピントの基準とする十字線は、像を結ぶべきフィルム面と光路長が正確に同じになる面に精密に描いてあります。そのため、十字線上に正確に像を結ぶようにすれば、光路を切り替えるとフィルム面にも正確に像を結ぶことになります。十字線と像の位置とがずれている場合は、正面から見たときと斜めから見たときとで像と十字線との重なり方が変わります。これが視差、パララックスです。感覚的に理解するには、ディスプレイ(でも何でもいいですが)の手前に紙片をかざして、紙片を動かさずに片目をつぶって顔を左右に平行に動かしてみます。そうすると、ディスプレイのどこが隠れるかが変わって(パララックスが生じて)、紙片が手前であることがはっきり分かります。これに対しディスプレイの表面に直接紙片を置くと、顔を動かしても隠れる部分は変わりません。これによって画面と紙片とが同じ位置にあることが分かります。
具体的な操作では、まずフォーカシングスコープの視度調節を行って使用者の目に装置を合わせます。目の状態はその日の体調によっても変わることがあるので、面倒でも毎回やることをおすすめします。ていうか合わせないとできないし。スコープの視度を調節するには、顕微鏡本体の光路を撮影装置行きに切り替え、さらに撮影装置の光路をフォーカシングスコープ行きにして、明視野照明で何も観察しない状態(背景は何もなく明るいだけ)にして、スコープの十字線が楽に鮮明に見えるようにします。たぶん縦横とも交点を避けて二つに分かれた二重線があるはずです。乱視だと首を傾けるなどの工夫が要るかも知れません。調整がすんだら、本体の光路を観察系(接眼レンズ)に切り替えて、プレパラートをステージに載せて普通に覗いてピントを合わせます。もちろん接眼レンズの視度調節もできているのが前提です。
次がポイントです。本体の光路を撮影装置に戻して、フォーカシングスコープを覗きながら目を左右(上下でも斜めでもいいですけど)にわずかに動かします。視線を振るのではなく、顔というか目そのものをわずか平行移動させるようにします。もちろん像が見える範囲で。すると、大抵はプレパラートの像に重なっていた十字線が少し動いて見えると思います。ピントが合っていない証拠です。ピントを微動させつつ同じことを繰り返します。目を動かした方向に十字線が動いて見えるなら後ピン(撮像面より後ろに結像)、反対方向なら前ピンです。プレパラートの像に十字線が「まるでプレパラートそのものに描いたように」ぴったり重なって動かないようになれば、合焦です。うん、蒸気機関車の起動手順並みに無用なロストテクノロジーだな、こりゃ。
あと、言うまでもないとは思いますが、蛍光で撮るときもピントは普通に明視野照明で合わせます(厚みのある切片だと少し話が違うみたいですが)。完璧に合ってから部屋を真っ暗にして(暗幕カーテンを引いて)、励起光を当てて速攻で撮影です。色素にもよりますが、そうそういつまでも光っていませんから。まあいっぺんやれば分かること、特に絶好の切片ができたのにもたもたやってるうちに光らなくなって悲しい思いをしたりすれば思い知ることですが。もっとも、お金持ちな研究室では全自動蛍光撮影装置とか持ってたりするみたいです。
なお、私が蛍光観察をやったときはしばらく使った形跡がない立派な80年代風システムがありましたから問題ありませんでしたが、対物レンズの中には紫外線で劣化するものもあります。落射蛍光の場合、励起光は光路の中間に挿入されたプリズムから対物レンズを経由してプレパラートに照射されます。紫外線励起なら、紫外線が全力照射されています。蛍光観察対応レンズでないと不可逆な障害を受けます。
もちろん、コンデンサーや絞りの調整はきちんとできていることが大前提です。そのあたりも含めて今まで適当にやってきていたのなら、ひととおりきちんとするだけで、別次元の仕上がりが得られることでしょう―プレパラートの善し悪し(これも超奥が深い)までは知りませんが。
ところで、顕微鏡用には天体用のフライアイルーペみたいなフォーカシング支援ソフトってないんでしょうかね。あるのかな。何百万円もするような機械にはついていそうな気もしますが、そんなのどこにでもあるわけではないし、あっても流用したらライセンス違反でしょう。ニコンの2010年代モデルの顕微鏡の制御ソフト NIS-Elements なんか、ハードウェアドングルによるプロテクトがかかってます(フォーカス支援機能はありません)。よほど盗まれたのか何なのか。でもあれ、Windows Updateかけると制御ソフトが起動しなくなったせいで、システムを導入当初のだいぶいろいろセキュリティホールがある状態にまで復元しなければならなかった上に、所内LANへの接続を禁止せざるを得なかったという。オフライン使用許可がない撮影装置はそのものが使用禁止。なんてこった。
プライベートでは30年以上ニコン党なんですが、セキュリティにも関わっていた立場上、研究所では「ニコンの撮影装置付き顕微鏡の導入は避けて欲しい」と言わざるを得なくなったのが切ないところです。競合メーカーでそういう制限がないところがあるなら、「ニコンの顕微鏡を導入すると制御PCの許可申請やら特別扱いの管理やらあなたも私も大変になるからニコンは止めて競合にできないか」と提案すべきでしょうねぇ…したくないなぁ…でもしょうがないなぁ…。最近はマシになったのかなぁ。
Windows Updateをかけると制御ソフトが動かなくなるようでは、「ニコンの顕微鏡制御PCが普通にLANにつながっている大学等のネットワークはセキュリティ上信用できない」ってことになります。なぜってWindows UpdateかけてないPCがつながってるから。販売業者さんは「大学なんかでは普通につないでますよ」と、安心しろとでも言いたげな口ぶりでおっしゃって下さりやがったのでもう大学のネットワークは全部信用しません。まあいいか、おかげで元々あんまり信用していなかった大学のネットワークの扱いについて完全に吹っ切れたし。それにしても、なんてこった。完全に愚痴です。
2020年代の状況は知りません。