Dionaea muscipula Sol. ex J.Ellis は北米温帯原産のモウセンゴケ科の草本で、日本には自生していないので標準和名はあるのかないのかすらよくわかりませんが、とりあえずハエトリグサとしておきます。ハエトリソウと呼ぶ人もいれば、まれにハエジゴクと呼ぶ人もいます。長らく分からなかったのですが、植物の名前についてはいつも頼りにしているYListに掲載されたので「ハエジゴク」を採用することにしました。これの育て方について。
菌根の真逆だからです。菌根は「植物が菌に頼って根のパフォーマンスを高めているもの」と言えますが、食虫植物では「肥料元素の吸収方法として根は諦めて虫を食う」という戦略をとっています。どちらも貧栄養環境への適応です。
食虫植物は、貧栄養環境であればさほど珍しいものでもなく、日本でも見られる場所があります。たとえば蔵王の酸性硫酸塩土壌(沢水はpH2くらい)にもモウセンゴケ類がたくさんありました。草津白根山の近くの「武具脱の池」の湿原にも一面に生えていました。私が1990年代にはじめて本格的な食虫植物の自生地を見た場所は、滋賀県でした。
滋賀県大津市南部の田上山一帯、「湖南アルプス」とも呼ばれる山地は、深層風化を起こしやすい花崗岩でできています。この地域は奈良時代に始まった過剰伐採ではげ山になって以来、激しい土砂流出を起こしてきました。天井川で有名な旧草津川も近所です。これを退治するために明治初期から近代的な砂防技術の導入が行われ、日本の治山砂防の聖地の一つとなっています。田上山にはこの時期の治山施設が多数あります。たとえばオランダ堰堤などです。土壌はもちろん極端な貧栄養な環境です。ここで見たのです(ハエトリグサハエジゴクをではありません、もちろん)。旺盛に生育するアカマツのすぐ下の白川砂(風化花崗岩)の湿地に、ミズゴケとモウセンゴケが生えているのを。
食虫植物に大木はありませんが(あったら怖い)、典型的な菌根植物であるアカマツとほぼ同じ環境に適応して生活しています。違いは水の量だけ(地表の光環境かも知れませんが光環境を決定する上層木の有無を支配するのは水の流れでした)。山には人が植えたクロマツの他に天然生のアカマツが生え、林縁や水辺には食虫植物(地上のモウセンゴケと岩の間のコモウセンゴケ、イシモチソウを見たこともあります)がミズゴケと共に生えていました。数メートルしか離れていないよく似た環境への適応に、進化は真っ二つな解を与えました。実に興味深い。
というわけでホームセンターなどで容易に手に入る食虫植物をいくつか育ててみることにしました。そのひとつがハエトリグサハエジゴクです。緑色の葉が直立する強健なタイプ。学問的な意味は特にありません。かれこれ610年になろうとしていますが、純粋に趣味で育てている方のやり方のほうが情熱の分だけ優れているでしょう。いえ、私も学問的興味の元に趣味で育てているだけなんですけど。ほら、研究室に観葉植物を置いているなんて珍しくないじゃないですか。
3号程度の普通の植木鉢に植えます。素焼きでもプラでもあまり変わりません。用土としては経験上ミズゴケ単用が一番良いようです。受け皿を使った腰水栽培にしますので、水に浸かる部分には軽石を入れます。これは、動きの少ない腰水では有機物が浸った場合すぐに貧酸素環境になるからで、貧酸素になると大概ろくなことになりません。軽石を入れるのはこれを避けるため、水に浸かる部分だけは腐らない無機物にする、という意味があります。
2013年には砂系土壌に挑戦して、惨敗を喫しました。2014年はネットの情報を参考に改良を加えたら、爆・殖。どうしよコレ。白川砂にゼオライトと有機物をだいたい2割ずつ混ぜました。有機物は、実験で使ったココピートの使い古し。ココピートとは、ココナツの外側の繊維部分を砕いて堆積して作った園芸・農業素材です。生チップに近いものから、土壌有機物のH層みたいになっているものまであります。もともと熟成タイプを使っており、さらに1年間クロマツ苗木の育成実験に使ったので、ほとんどわけの分からない酸性腐植物質と化しています。これが当たりだったようです。うーん奥が深い。
12月に植え替えのため掘り上げたハエジゴク。状態はいまいちですね。古い葉と根をトリミングしたところです。俗に球根と呼ばれる部分、どっちかというと鱗茎に近いのですが正確には肥厚した葉柄ですね、この白い部分がミズゴケに埋まっていたところです。新しい葉は下の方から生え、新しい根もそこから伸びます。最初は白いのですが、すぐに黒変します。根が枯れたかどうかは潰れたり腐ったりしているかどうかで判断します。
日当たりの良いところに置きます。湿地の植物ですが、あまり多湿なところに置くとナメクジの被害に遭うことがあります。直射日光は、温度が上がりすぎない程度に。直射日光自体は平気ですが、コンクリートの上に出しっぱなしとかだと夏の高温で傷むことがあります。冬は関東地方なら屋外放置で多分大丈夫です。霜よけくらいはすべきかも知れません。温帯の植物なので、むしろちゃんとした冬を与えてやる必要があります。日長反応があるので、下手に室内に取り込むと長日条件になって、変な時期に花を付けたりします。室内で栽培しているものは、毎日段ボールやアルミ箔などで覆って夜を与えてやると良いでしょう。
鉢には受け皿を使い、常に水が溜まった状態の腰水栽培にします。水がなくなったらすかさず上からかけるようにして、絶対に鉢を乾燥させないようにします。室内であればコップの水を上から注ぐのが良いでしょう。株の真ん中にかけてやって差し支えありません。じょうろや散水ホースで全体にかけても良いですが、あまり勢いよくかけると捕虫葉が誤作動してしまうことがあります。受け皿の水が汚れてきたり藻が生えてきたりしたら適宜洗いましょう。温室で育苗用自動灌水装置の有効範囲の隅のあたりに置いておいたら、毎日受け皿からあふれるまで水がかかり、いい感じでした。屋外では遠慮無くどばどば水をやるのがいいようです。
肥料は要りません。ていうか試しハイポネックス2000倍をかけたら枯れました(因果関係を言うにはサンプル数不足)。虫も与える必要がありません。屋外や窓の開いた温室なら勝手に捕虫します。屋内でも特に必要ありませんが、たまに虫あるいはごく小さな肉片(魚肉)を与えてみても害はないようです。その際、捕虫葉内側の感覚毛に触れると捕虫葉が閉じますが、そのままでは誤作動と判断されてまた開いてしまいますので、「虫がもがくように」刺激を与えてやる必要があります。捕虫葉の外側から何度かつまんで圧力をかけるとうまくいきました。
温室で見ているといろいろな虫を捕っています。小型のハチ(夏はよく受け皿の水を飲みに来ています)を捕ると、外骨格が堅いせいか消化しきれず「相討ち」になって、捕虫葉がダメになることがありました。ハエは長いこと見たことがありませんでした。ガカンボやアブは時々捕らえていました。よく捕りよく消化していたのはクモ類です。それも、走り回って獲物を捕らえるアクティブな狩猟性クモ類。といえば代表的なものはハエトリグモ。ハエジゴクがハエじゃなくてハエトリグモを捕るだなんて、それじゃハエトリグモジゴクじゃないですか。ていうか一周回ってハエテンゴク?やだもー。まあ消化できれば何でもよいのでしょうけれど。
園芸書や園芸サイトには「越冬時には地上部が枯れる」と書かれることもあるのですが、私が育てているものは真冬でもロゼット状の葉を広げています。そのまま夏と同じような水管理をすれば、問題なく越冬出来ます。自宅では軒下に置いているのであまりひどい霜はおりていないはずですが、受け皿の水は何度か凍結しました。もしかしたら無加温フレームに入れた方が良いのかも知れません。無加温で窓開放の温室の隅っこにあるものは調子がいいようです。色鮮やかな園芸品種とかでは違うのかも知れません。
ハエジゴクは、育てていると俗に「分裂」と呼ばれる現象を起こし、元々ひとつの株だったものがいくつかに分かれて密生した状態になることがあります。そのままでもすぐにどうにかなるわけではないのですが、見た目が悪いし個々の株も貧弱になるので、掘り上げて株ごとに分けてやることもできます。冬に行うのが良いそうですが、水管理さえしっかりしていれば1年中いつでもできます。
「分裂」したハエジゴクを鉢からミズゴケごと取り出し、水を張ったバット(洗面器などでよい:粉砕バットでは決してない)に入れて、古いミズゴケを取り除きます。ハエジゴクの根は株の中心近くから真っ直ぐ下に数本伸びています。根が分枝しているのは見たことがありません。黒く腐っているものもあるでしょう。黒くても硬いもの、先が白いものは生きていますので傷つけないよう。ていねいにミズゴケと枯死根・枯れ葉を取り除いたら、自然に株はばらばらになるはずです。
ばらばらになった株をそれぞれ新しい鉢(鉢自体は使い古しでもいいけれど)に新しいミズゴケで植え込みます。当然のことながらミズゴケは充分に水を吸わせてから。具体的には新品をしばらく水に浸し、いったんよく絞ってからまた浸し、こんどは軽く絞ってから使います。葉柄の付け根付近が肥大して上記「球根」になっているので、ミズゴケの表面から1cmくらいの深さになるようにしてやります。または、白い部分がだいたいミズゴケに埋まるくらい。葉っぱが反っていたりして難しいこともありますが、そこは戦術と腕かな。
先述の通りハエジゴクは長日植物なので、野外条件では5月頃に抽苔(花茎を伸ばすこと)します。当然のことながら株に負担がかかりますから、「開花はさせるべきでない」とする資料が多いようです。枯らしたくはないので小さな個体の花茎は摘むようにしていますが、ためしに大きく育った株の花茎を放置して開花させてみたことがあります。
モウセンゴケ科らしい、でもあんまりぱっとしない白い花が咲きました。食虫植物のくせに虫媒花です。雄性先熟ですが自家不和合ではありません。人工授粉してやると簡単に結実します。ほぐした綿棒で葯の開いたおしべに触れ、次いでめしべに触れるだけです。しばらくすると果実ができてきます。花が散ってから種が取れるまで案外かかりました。親植物のほうは別段弱った様子もなく、元気にしていました。ただ、翌年以降分裂するものが多いように感じました。むしろ個体数だけなら増えたし。
採取した種子は、すぐにミズゴケに蒔いてみました。取り蒔きなら春化処理は必要なく、単純に蒔くだけでも発芽率はいいようです(追跡できたものは全部発芽しました)。細い子葉に次いで出てきた本葉には、もう小さな捕虫器があります。生長は、かなり遅いようです。3年経っても明らかに子株です。増やすなら葉挿しが早いそうですが、置き場にも限りがあるので試していません。ていうか「分裂」の処理だけで「誰かもらって」ってくらい増えます。
温室の自動灌水装置の範囲内にうっかり放置して忘れていたら花が咲いて実がなってしまったこともあります。さすがに小さい株にはきつかったようで、かなり弱りました。鉢自体がいい加減なビニールポットだったせいかもしれません。