日本きのこ学会誌 27(3), 101-102 (2019)

きのこ情報

きのこの標本や菌株など遺伝資源の輸入について
―生物多様性条約名古屋議定書ABSへの対応―

明間 民央

国立研究開発法人 森林研究・整備機構 森林総合研究所 きのこ・森林微生物研究領域 微生物生態研究室
305-8687 茨城県つくば市松の里1

海外の試料の入手に際し,ABS対応のための煩瑣な手続きがしばしば問題となる.このABSとは何か,なぜそうなっているのか,歴史的経緯からその原則を振り返るとともに,多用される頭字語を表1にまとめた.

表1. ABS関係の頭文字による略称とその日本語名及び正式名称
略称 日本語名 正式名称
UPOV 植物の新品種の保護に関する国際条約 Union Internationale pour la Protection des Obtentions Végétales
CBD 生物多様性条約 Convention on Biological Diversity
COP 締約国会議 Conference of the Parties
NP 名古屋議定書 Nagoya protocol
ABS 遺伝資源の取得の機会とその利用から生ずる利益の公正かつ衡平な配分 Access and Benefit-Sharing
ABSCH ABSクリアリングハウス Access and Benefit-Sharing Clearing-House
PIC 事前の同意 Prior Informed Consent
MAT 相互に合意する条件 Mutually Agreed Terms
MTA 素材移転契約 Material Transfer Agreements
GR 遺伝資源 Genetic Resource
ITPGR (ITPGRFA) 食料及び農業のための植物遺伝資源に関する国際条約 International Treaty on Plant Genetic Resources for Food and Agriculture
IU 植物遺伝資源に関する国際的申合せ International Undertaking on Plant Genetic Resources
MLS 多国間の制度 Multilateral System

栽培きのこについては,他の作物と同様に「植物の新品種の保護に関する国際条約(Union Internationale pour la Protection des Obtentions Végétales : UPOV)」(1968年発効,日本は現在91年改正版に加盟)の枠組に基づいて整備された種苗法や各国の相当する制度に基づいて管理されており1),育成者の知的財産権保護が問題とされることが多かった.

これとは別にGATTウルグアイ・ラウンドでアメリカの主導により成立した2)「知的所有権の貿易関連の側面に関する協定 (Agreement on Trade-Related Aspects of Intellectual Property Rights : TRIPS協定)」の中にも植物品種保護を定める項目が盛り込まれており,他の枠組との間の調停が議論されている3)

育種素材などとして利用される遺伝資源の提供国(原産国)には,国家主権の一部として自国の資源に関する権利があると考えられるようになってきた.しかし,これまでは例えば発展途上国で採取された微生物を元に先進国(利用国)の企業が医薬品などを開発して利益を得た場合,発展途上国(提供国)側に対する利益の還元を保証する仕組みがなかった.「生物多様性条約(Convention on Biological Diversity : CBD)」は,利用国から提供国への利益還元の根拠となるもので,国連環境計画(UNEP)のもと1993年に発効した4).その第10回締約国会議(Conference of the Parties : COP10)が2010年に名古屋で開催され,名古屋議定書(Nagoya protocol : NP)が採択された.同議定書はCBDの目的の一つ「遺伝資源の取得の機会とその利用から生ずる利益の公正かつ衡平な配分 (Access and Benefit-Sharing : ABS)」のための手続きを定めるものである.

日本国内においては2017年に「遺伝資源の取得の機会及びその利用から生ずる利益の公正かつ衡平な配分に関する指針」(以下ABS指針)が政府により策定・公布され,国会による承認を経て日本も名古屋議定書の締約国となった.

ABS指針を遵守するため,遺伝資源を含む生物材料等の輸入に必要な手続きは以前よりはるかに複雑になった.大枠の原則としては,遺伝資源の利用には提供国から「事前の同意(Prior Informed Consent : PIC)」を得て,遺伝資源の管理者との間で「相互に合意する条件(Mutually Agreed Terms : MAT)」を設定して「素材移転契約(Material Transfer Agreements : MTA)」を締結することが必要である.得られた利益はMAT/MTAに定められた条件に従って提供国に配分される.

海外から遺伝資源を輸入する場合は,自ら調査を行い採集した標本を持ち帰る場合でも,提供国の政府からPICを得て,遺伝資源の管理者とMTAを締結する必要がある.商業的利用をするか否かに関わらず,全ての遺伝資源がCBDの対象になる.これを怠って逮捕された例もある4)し,外交問題化する恐れもある.

遺伝資源に関する多国間条約には,UPOVやCDBだけではなく「食料及び農業のための植物遺伝資源に関する国際条約(International Treaty on Plant Genetic Resources for Food and Agriculture : ITPGRまたはITPGRFA)」という枠組もある.これは,食糧としての植物遺伝資源は人類共通の財産であり無制限の利用が可能であるべきという考え方の下に,国連食糧農業機関(FAO)が事務局となって1983年に結ばれていた「植物遺伝資源に関する国際的申合せ(International Undertaking on Plant Genetic Resources : IU)」を淵源とする.

しかし,遺伝資源を人類共有財産と考えるIUは,遺伝資源に対する国家の主権を認めるCBDや品種の権利を保護するUPOV,知的財産権に関するTRIPS協定と矛盾する可能性があり,これらの関係を整理した国際的ルールが必要となった5).そのために2001年に締結されたのがITPGRである.ITPGRは締約国のジーンバンク等を共同利用するものであり,所蔵されている遺伝資源のうち「附属書Ⅰに掲載されたもの」と「締約国の管理下にある公共のもの」が対象となっている.

ITPGRの対象となる生物資源については,PIC/MTAのような個別の取り決めを必要とせず,CBD第4条に定められた例外として「多国間の制度(Multilateral System : MLS)」によって取り扱われ,通常のMTAとは異なる「定型の素材移転契約(Standard Material Transfer Agreement : SMTA)」という世界共通の契約書により取引が行われるが,運用実績は乏しい.

現時点でITPGRの対象となる生物種は,食糧安全保障等の観点から重要な作物として締約国が合意し附属書Ⅰに掲載したイネ・小麦・とうもろこし等の食用作物35種及び飼料作物81種のみである.そして,きのこやトマト等ほとんどの野菜は対象外とされている.そのため,きのこは食糧資源としてITPGRの枠組で取り扱うことが出来ず,CBDで取り扱われることになる.

CBDの枠組でABS指針の下にMTAを締結して遺伝資源を取得するためには,その都度手続きが必要で,原産国ごとに必要な手続きが異なり,しかもその手続きはしばしば変更される.これでは現実的な運用は困難なので,ABSに関する情報交換の仕組みとしてABSクリアリングハウス(Access and Benefit-Sharing Clearing-House : ABSCH)がCBD事務局に設けられている(https://absch.cbd.int/).日本では大学共同利用機関法人情報・システム研究機構の国立遺伝学研究所に「ABS学術対策チーム」が設置され,日本国内の情報センターとなってWebサイトやライブ感のあるメーリングリストなどで積極的な情報提供を行っている(http://nig-chizai.sakura.ne.jp/abs_tft/,メーリングリスト参加はサイトのフォームから).

海外からきのこの菌株や標本を持ち込むことを計画する際は,これらの組織が提供する情報を参照しつつ,所属機関のABS担当者と充分な打ち合わせをして相手国からPICを取得しMATを定めMTAを締結する必要がある.また,手続きをスムーズに進めるには相手国の国立大学や政府機関をカウンターパートとするのが有効である.それでも準備に半年から1年程度かかることがあるので,研究の計画段階から考慮しておく必要がある.

なお,日本を含む多くの先進国は遺伝資源の輸出に際しPICを求めないとしており,日本からの遺伝資源の持ち出しについてはCBDに基づく規制は当面行われない.そのため,登録品種ではない野生菌株などの日本からの持ち出しには規制はない.また,国連加盟国で唯一アメリカだけはCBDを批准していないため,ABSの枠外にある.

正規のPIC/MTAのない材料で研究を行うことは研究不正となり,論文発表や資金獲得も困難になる恐れがある.一方で,インド6)やブラジル7)のような有力国を含む原産国側にはDNAのシーケンス情報までも遺伝資源として取り扱うべきと主張する国もあるなど,情勢は未だ流動的である.伝統的民間医学で用いられる薬草は当然遺伝資源だが,薬草利用のノウハウも有用な情報であり,CBDの対象となる可能性がある.

きのこについても,菌株や乾燥標本を含め,海外から材料を入手する場合は双方のABS指針を踏まえた慎重な検討と事前の準備が必要である.CBDは国際的な共通の枠組ではあるが,輸入時の取り決めはその都度個別の交渉によって行うルールである.

ABS関連の制度の原則を理解するために,この小文とリストが役に立てば幸いである.

謝辞

本稿を執筆するにあたり,静岡大学イノベーション社会連携推進機構ABS担当コーディネーターの寺嶋芳江特任教授と全国食用きのこ種菌協会の福井陸夫首席技術顧問に貴重なご助言をいただいた.心から感謝の意を表する.

引用文献




セルフアーカイブ化に当たり、引用文献には可能な限りリンクを付加し、誤字脱字修正、文献(2, 5)情報欠落を補いました。